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【アイスの袋を歩道の側溝のフタに差し込んで捨てたカップルの話】

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[6月に発送した便りです]

「ロボットやプログラミングなら自分にできそうな気がする。おもしろそう」
「思い通りに、ロボットを動かせるようになりたい」

と、はじめたころの自分を思い出しましょう。
そして、何を経験してきたか、いま何をどれだけできるようになったか、指折り数えて自信を持ちましょう。

【アイスの袋を歩道の側溝のフタに差し込んで捨てたカップル】

 「ロボットとは、自分(人間)が考えた動きを上手によい加減で動くようにプログラミングした機械」です。

 だから、プログラミングの「正解」は、自分が決めたらいいのです。

 前置きの前置き。
 『学ぶ』とは、「次はこのように変えてやってみよう」と『気づく』ことです。これは理科の科目的な言い方です。
 理科ではないたとえば「歴史」でも、「この人とこの人はどんな関係があるのだろう?」と『気づいて』探求することが『学び』です。
 自分の発想と行動が次々起こるのが、『学び』です。
 強制からは、『学び』はありません。

 ロボット教室で、なんでこんな話を?と思われると想像するので前置き。
 「こんな社会がいいなあ」と考えて、そのためのルールを自分で決める経験がないことが原因で、「ルールから外れたことをやっても、誰からも見つからなかったらいい」という発想が蔓延しているように感じています。
 ロボプロでやっていることも、「操縦したい」「遊べるものを作りたい」レベルで、「こんなロボットを作って動かすための知識とテクニックを身につけたい」といった、自分の行動を決めるルールを決めていなくて、設問をやっていなくても見つからなかったらいい、という考えの人を見かけることがあって、それはなんでかなあ?根っこは同じなんじゃない?と思ったので、ここで書くことにしました。

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 ある日目撃しました。自転車で走っていた時のこと。
 見ると左前方のコンビニから、二十歳くらいの男女のカップルが袋入り棒アイスをの袋をむきながら出てきました。
 男が右手にしっかり棒を持って、袋をハラリと落としたので、手が滑ったのだろう、すぐに拾うだろうと思いました。でも、拾う素振りを見せずに同じ調子で歩いていきました。
 女がしゃがんだので、男に「ダメじゃん」などと言って拾うかもと思ったら、自分のアイスの袋を歩道の側溝のフタのすき間に差し入れて捨てていました。

 カップルの脇を通ったときに私が「拾ってゴミ箱に捨てろ」と怒る選択肢も頭に浮かびましたが、いろいろ考えて、混乱してしまったので、通り過ぎてしまいました。
 こんなことを考えました。

・おそらく彼らは、「自分に必要じゃなくなったから手から放した」のだろう。
・怒って、拾わせるだけならできるかも。それも彼らにとっての社会経験かも。
・でも、私が通り過ぎたら、その場に同じように捨てる可能性が高い。
・私がゴミを受け取っても、彼らは次も同じことをするだろう。
・女連れなので、逆切れして力を見せてくるかもしれない。
・そうやって捨てたゴミがどうなるか、想像できていない。
 (近所の人など誰かが拾って掃除している。畑や田んぼに入る。川、琵琶湖、海に流れて生物に影響を与える。紫外線などでボロボロになって、マイクロプラスチックとなる。その結果が人間にも返ってくる。など)
・彼らは、「どんな社会で生活したいか」を考えていない。
 (ゴミを捨てることだけではないが、ゴミに限定しても、野生生活なら木の実の皮をその辺に捨ててもまだ大丈夫。もしくはお金を払って、お付きの人にすべて世話してもらっているのならまだしも、そんな人もいないのに。)
・そのための、自分の行動ルールを考え、決めていない。
・おそらく、校則や決まりなど、学校や先生に決められ、自分は守らされる立場で、すべてのことは「見つからなければよい」「怒られなければよい」という発想になっている。
・そういった、受け身、被害者的立場の方が、楽。
・おそらく、「校則や決まりを生徒自身で決めていい」と言われても、今ある規則の一つ一つの必要、不必要を言うぐらいで、「自分たちに本当に必要な決まりって何?」からは考えないだろう。
・もし、自分たちで校則や決まりを決めたとしても、「生徒全員に守らせる」方向に考えが行くのだろう。他人を取り締まったり、強制したり、権力がある立場に立つのは ”安全“ だし、甘美。
・いったん決めたとしても、「自分がやりたいことのために学ぶのに具合が悪かったら変えたらいい」のだが、ここまでの発想はないだろう。
・だからここで、「自分が捨てたゴミを拾わせる」って、どう振る舞うのが効果がある?
 (今彼らにゴミを拾わせたいのではなくて、今後ゴミ箱に捨てさせるにはどうするのがいいか?という話)
・最近、道端にマスクがたくさん落ちている。原因は同じだろうなあ。

 考えすぎました。

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 この話とロボプロがどう関係するか?と疑問に思われるでしょう。
 でも、ここで書いたカップルのような人は、ロボットに興味を持ったとしても何も学ばないだろう、学べないだろう、と思いませんか?
 ロボットだけではなくて、どんなことでも学べないでしょう。
 自分じゃない他人が決めたルールを、その人が見ている場所だけで守っているようにふるまう、自分の頭で考えて決めない、そんな他人任せだったら、何も学べません。

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 学校や塾はどうしても、「生徒が、自分じゃない他人が決めたルールを守らされる場所」になってしまいがちです。
 先生が効率よく教えるためにはこういった仕組みが必要だし、生徒もこの仕組みを受け入れたほうが楽です。

 日本の学校は、20人~50人の一斉授業です。全員に興味を持たせ、全員に同程度の理解をさせることはできません。義務教育期間の公立学校は特に、「地域が同じ」というだけで集まっていますので、興味関心も、能力やレベルもバラバラです。できることは、せいぜい、そのクラスの全員が学校に来て出席するようするまでです。
 学力順に並べて中くらいの生徒(6割程度の人数)の学力が、社会に出た時にだいたいそろっていて、誰がやっても同じようにできるようにするのが学校の実質的なゴールです。私立学校は、上位の生徒を偏差値が高い学校に何人合格させるかというところもあります。
 どちらにしても、一人一人の興味ややりたいこと、能力に合わせて、本人に必要なカリキュラムを自分で組めるようにすることはありません。(日本でも、カリキュラムを自分で組ませる学校は0ではありません。)
 以上のことから、日本の学校で生徒を管理するためによく使われる手段が、「校則と決まり」「カリキュラム」です。どちらも、生徒のためを思って、良かれと思ってのことではあります。
 でもそのおかげで、教科書の設問や部活のことを考える以外の『考える・学び』の機会がなくなっています。
 校則や決まりの違反時には取り締まり、定期テストをして点数で評価したり、成績を見て説教したり。その事実に間違いはないので、よく行われています。

 その結果、これが大事なことです。
 生徒にとって、校則や決まり、カリキュラムからどれだけ上手に逃げて、どれだけ怒られないか、おいしいところだけつまめるかの思考回路を強化し、能力を開発することになっています。
 言われなかったらいい、見つからなかったらいい、必要最小限の力でこなすならどの程度か、早く帰ってゲームしたい、自分の頭で考えない、どこか誰かが自分が得する社会を作ってくれたらいい、など。自分の頭で考えない、決めない、行動の結果を引き受けないので、楽です。決まりに従わされている、という被害者意識も甘美です。

 だから、最初に書いた「アイスの袋を歩道の側溝のフタに差し込んで捨てたカップル」にはどうしたらいいか、と考えてしまったのです。彼らは決まりから逃げる練習ばかりしてきたでしょうから。
 ロボプロに来ている生徒で、何も学ばないでもったいないことをしている人に対して、怒っても仕方ないし、手取り足取り指示を出すのなら、決まりで縛り付けるのと同じことをしていることになります。操られた人から「満足した?」と逆に聞かれることになるでしょうし、私には、操り人形を操る義務はありません。

 だから、言われた側が決まりに従わされる立場に持っていかれる、強制や監視のことばではなくて、

  「テキストに書いてある以外に思い付くことをやってみたら?」
  「おもしろそうなのができたら、動画を撮影しよう」

 と声掛けをしています。
 「こんな ゆるい ことしか言われない。ラッキー♪」
 と思っているのでしょうか?

 あと、気づいていないかもしれませんが、テキストを事細かに説明していません。すべての設問をやらせようともしていません。すべての設問の答えを出すことが大事なのではなく、『学ぶ』ことが目的ですから。世間話的に声をかけていることは多いかもしれませんが。
 その代わり、大事なところなのに、生徒として軽く考えてしまいそうな、間違いやすい個所があったら近くに行って、テキストのその個所を指で差しながら説明しています。私がわざわざ説明していることには意図があります。

 みんなの様子を見ているのは、やっているかの監視が主な目的じゃなくて、
 「どんな発想で解決しているのかな?みんなから教えてもらおう」
 です。その人に役立つ追加情報があるかも、という思いと、ほかの人にも役立つことはないかな、と思ってのことです。ぜひ協力をお願いします。

 『学ぶ』とは、「次はこのように変えてやってみよう」と『気づく』ことです。
 『気づく』ためには、自分の頭で考えなきゃ。
 私は、その邪魔をしません。

 ロボプロで練習というか、
 体験というか、
 経験値を上げるというか、
 リハビリするというか、
 「自分がやりたいこと」をイメージして、
 何をどうするか考えて決めて、やってみましょう。

 「決まりから逃げようとする」のは、これまで生きてきて獲得した「発想の仕方」「考え方」です。
 大人も子供も、「発想の仕方」というか「考え方」にはとても頑固です。変えようとしても、強い抵抗をします。自分で自分を変えようとしてもです。
 だから、時間がかかるかもしれませんが、つきあいますよ。

 何よりも、「次はこのように変えてやってみよう」って考えるのは、楽しいことです。

(学びラボ 若狭 喜弘)

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